ロック/フォークの登場以降、日本でコンサートやフェスが浸透していくプロセスにおいて、ラジオ局と全国のコンサートプロモーターの連動は大きな力を発揮してきました。深夜放送発のプロモーションだけではなく、時に主催者として、時にともに制作や運営を手がけるパートナーとして、ラジオ局はライブ・エンタテインメント市場の発展をバックアップしてきました。その中でもニッポン放送は代表的な存在ですが、2019年、同社に「在京キー局初の女性社長」が誕生。長年のパートナーから吹いてきた変化の風を受けて、中西健夫ACPC会長が檜原麻希ニッポン放送社長と「新時代」を語り合います。
会報誌 ACPC naviライブ産業の動向と団体の活動をお伝えします。
中西健夫ACPC会長連載対談 Vol. 32 檜原麻希(株式会社ニッポン放送 代表取締役社長)
企業として、エンタテインメントの担い手として
「働き方」を進化させるための新しい考え方
コロナ禍で実感したDNA
中西:檜原さんにはだいぶ以前から、色々とお世話になっておりました。
檜原:番組でDJもやっていただいていましたよね。
中西:大昔は『オールナイトニッポン』でしゃべらせていただいたこともありました。社長に就任されて以降、プレッシャーも大きいとは思いますが……。
檜原:プレッシャーを感じる余裕もなかったんですよ。就任直後にコロナ禍になってしまったこともあって。
中西:まず感謝の気持ちをお伝えしたいのが、コロナ禍になってコンサートやフェスが不要不急の扱いをされた時に、檜原さんがメディアの皆さんの中で最も早く「何かできることはないですか?」と声をかけてくださったことです。
檜原:音楽業界4団体の皆様と一緒に、メッセージを発信できたことは私達にとってもよかったと思っています。
中西:僕らにとっても本当に心強かったです。あの頃、アフターコロナを見据えようとしても、なかなか見えてこなかったので、業界全体が不安に陥っていましたから。
檜原:コンサート業界の状況が全く他人事に思えなかったのは、DNAも関係していると思うんです。弊社とコンサート業界との関わりは、1971年の箱根アフロディーテからで、メディアとしては早くから興行に携わってきました。そのDNAが今でも引き継がれているんですよ。ピンク・フロイドを招聘して、日本で最初期の野外フェスを開催したなんて、我々の先輩方はすごかったなと改めて思います。その後、放送局がコンサートに関わる際は、報道機関としての信頼性から会場を押さえてPRを担う名義主催の役割が多くなりましたが、近年、弊社では自主制作の手打ち興行をやるようになっていて、それが成功してきた実績もあります。それと、間違いなくコンサートプロモーターの皆様とは今後もご一緒させていただくわけですしね。
中西:僕らプロモーターだけでは、日本武道館を借りられない時代がありました。
檜原:一昨年に箱根アフロディーテは開催から50周年を迎えて、「昔の資料は残っていませんか?」とソニーミュージックのプロデューサーの方から連絡をいただいたんです。社内に当時のことが分かる人間はいないので、OB会のメンバーに話を聞き、屋外でPAを日本で初めて設置した話など、貴重な証言が聞けました。記念アルバムがリリースされて、弊社でも特別番組を放送(2021年7月29日『伝説の箱根アフロディーテから50年~ピンク・フロイド貴重音源、奇跡の発掘~』)したんです。過去を掘り起こす作業はたまにやらないと、今は5年だけでも大きく変わっていってしまいますから。『オールナイトニッポン』でも5年ごとに回顧したり、放送局の役割としてそれも大事ではないかと考えています。
中西:記憶でしかなかったことを記録するのは、とても大切だと思います。若い世代に受け継いでいくためにも。