撮影:宇都宮輝
「チケットの高額転売も、貸しレコードも、問題に直面すると人間は志を持つんです」(後藤)
「僕らも大人になって、どのように物事を進めるかが見えてきました」(中西)
1988年のACPC設立は、多くの協力者の方々がいてこそ実現しました。30周年を記念する今号の中西健夫会長連載対談では、その中でもACPCにとって特別な存在である後藤豊さんをゲストにお招きします。71年、大学在学中にユイ音楽工房を立ち上げた後藤さんが、吉田拓郎さんのコンサートツアーを行うために全国の若者達と連帯したことが、各地のコンサートプロモーターの誕生につながり、そのネットワークはACPCの設立に発展していきました。さらにはACPCの設立に際して、日本音楽制作者連盟(以下、音制連)の理事長を務めていた後藤さんは、「団体の先輩」として新団体が産声を上げるための後押しをしてくださいました。対談は当時の思い出を中西会長がお聞きする流れでスタートしましたが、やがて現在のライブ・エンタテインメントの課題へとテーマは移っていきました。思い出話だけでは終わらないところが、後藤さんらしい―のではないでしょうか。
後藤:まだ音制連が社団法人になる前だったと思うんですが(1989年に社団法人として認可)、僕の記憶ですと、設立を目指していた段階のACPCに、当時、音制連が借りていたオフィスのデスクを一つお貸ししていた時期がありました。最初はACPCも財政的に豊かではなかったでしょうし、事務局のスタッフも山本さん(山本幸治/現ACPC顧問)と、もうおひと方しかいなかったと思います。あれは何年くらいのことだったか……。
中西:ACPCは88年に任意団体として設立されていますから、おそらく87年くらいじゃないでしょうか。
後藤:僕とコンサートプロモーターの方々との関係は、さらに遡ると吉田拓郎に行き着くんです。そう考えると、やっぱり吉田拓郎はすごいなと改めて思います。1970年代の初めに、拓郎を中心に俺達の時代をこれからつくっていくんだと、地方のプロモーターの方々はみんな思ってくれていました。当時、ラジオの深夜放送に関わっていた人達と同じくらいの思い入れを持って。彼らにはアンチ東京という気持ちもあったんですよ。例えば僕であるとか、亡くなった細川健(ヤングジャパングループ)に対して。だから僕も頭にきたこともありましたが(笑)、当時の東京と地方のギャップを考えたら、頭にきてばかりもいられないなと。日本全体を考えた時に、全国のネットワークは必要だと思ったんです。
中西:後藤さんはプロモーターから始まって、すべての業態の経験者ですよね。
後藤:昔の音楽業界には序列のようなものがあって、レーベルが一番上だったでしょう。その次にくるのがプロダクションなのか、音楽出版社なのか、プロモーターなのかはわかりませんよ。ただ、レーベルが上にいたことは間違いなかった。だから僕も、結局(フォーライフ・レコードの設立に参加して)レーベルを選ばざるを得なかったんです。今は完全に水平ですよね。どの会社が何をやってもいい時代。そんな中でプロモーターの立ち位置は上がってきているのに、僕の失敗は、最終選択としてプロモーターを選ばなかったことなのかもしれません(笑)。キャリアのスタートはプロモーターだったにもかかわらず。そのまま行くべきだったんですけれど。
僕は1974年にウッドストックに行って、アルバート・グロスマンというボブ・ディランのマネージャーに会ったんです。彼と会ったことが僕の人生を変えました。あの時に彼と会ったことが、のちの、つま恋(1975年に行われた「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」)と、フォーライフの設立につながりました。