ロック・バンドがライブで演奏する。メンバー自身による日本語の詞が、バンドならではのサウンドと一体となることで観客へと届く。今では当たり前となったロック・バンドのフォーマットは、松本隆さんが細野晴臣さん、大瀧詠一さん、鈴木茂さんと1969年に結成した「はっぴいえんど」に原型があります。
はっぴいえんどのドラマーであり、作詞を手がけていた松本さんは約3年間の活動後、作詞家に転身。歌謡界のトップに君臨していた作曲家・筒美京平さんとコンビを組みつつ、時にはバンド時代の仲間を作曲家に起用しながらヒット曲を量産。ヒットチャートの1位になった楽曲は52曲に及びますが、松本さんの作品の影響力は「記録」だけでは計れません。それは作詞活動50周年を記念して開催された「風街オデッセイ 2021」が、日本武道館を2日間ソールドアウトさせたことからも分かります。時を超えて愛される言葉が、独創的な歌詞がコンサートの主役になり得ると証明した松本隆さんは、唯一無二の作詞家だと言えるでしょう。そんな松本さんが中西健夫ACPC会長からの問いかけに答え、日本のライブ・エンタテインメントの歴史と未来、そして地方創生までを語ってくださいました。
会報誌 ACPC naviライブ産業の動向と団体の活動をお伝えします。
中西健夫ACPC会長連載対談 Vol. 35 松本隆(作詞家)
どこにいても「仲間」とのつながりを大切にすれば
全国で新しいことは生まれる、世界に届く
はっぴいえんどの頃
中西:僕は京都出身なんですよ。
松本:そうですか。僕は今、京都在住です。
中西:高校生の時、京都府立体育館のイベントに出演していた、はっぴいえんどを観たことをよく憶えています。
松本:はっぴいえんどは、全国でコンサートをやったわけじゃなかったんです。解散間際に4〜5ヶ所、ツアーを回ったくらいで。岡林(信康)のバックではツアーも回りましたし、日本武道館でも演奏しましたが。それ以前のエイプリル・フールの頃は、バンドがライブをやるのはディスコのハコバンが中心。新宿のパニックといったお店でやっていました。
中西:当時の東京のバンド事情は実感として分からないところもあるのですが、それは何年くらいの話でしょうか。
松本:1960年代末から70年代頭です。
中西:当時、単独コンサートで京都に来るのは、吉田拓郎さんくらいで、フォークだと色々なアーティストが一緒に出るイベントが多かったですよね。まだコンサートプロモーターという存在も確立されていなくて。
松本:はっぴいえんどの解散コンサート(文京公会堂/73年)も、仕切っていたのは(マネージャーの)石浦(信三)でした。
中西:後藤豊さんが早稲田大学で拓郎さんのコンサートを始めて、ユイ音楽工房の立ち上げ(71年)につながり、関西から細川健さんが出てきてヤングジャパンを設立(同じく71年)した時代です。その後、85年には国立競技場のALL TOGETHER NOWで、はっぴいえんどは一夜限りの再結成をしましたよね。ニッポン放送の亀渕(昭信)さんが中心になって、全民放が協力した歴史的なイベントでしたが、作詞家に専念されていた松本さんにとっては大変でしたよね。
松本:73年の解散コンサートから12年ぶりでステージに立ち、ドラムを叩いたわけですから大変でした。細野(晴臣)さんに「どうしよう」と言ったら、「松本、楽器なんて自転車に乗るのと同じで、一度できたら一生できるものなんだ」と騙されてね(笑)。「身体が覚えているから大丈夫だ」と。まあ、必死に叩きましたよ。国立競技場のステージにはっぴいえんどが登場した瞬間、3人の失神者が出たそうです(笑)。救急車が来て騒ぎになって。
中西:女性のお客さんが、ですか?
松本:いや、男性が。3人ともおじさんだったそうです(笑)。
中西:それだけ気持ちが昂ったということでしょう。応急処置を受けて、大事には至らなかったわけでしょうから。85年だとコンサートプロモーターはまだそれほど成熟していない頃です。バンドブームの走りで、ライブが中心ではありましたけれど、ビデオクリップがとにかく流行っていた時代ですね。ミュージシャン達もヴィジュアルにすごく気を遣っていました。
松本:当時、シンコーミュージックの草野(昌一)さんに呼ばれて「松本くん、ビデオクリップをつくりなさい。勉強しなさい」と言われたことがありました。作詞家の仕事がありましたから、結局はやりませんでしたけれど。もしかすると、やっておいたほうが良かったかもしれない(笑)。
中西:時代を先取りして、松本さんにそんな提案をした草野さんは、やはり天才的なひらめきがある方だったと思います。
松本:実ははっぴいえんどで、ビートルズの映画『HELP!』風の映像をつくったことがあったんです。ビデオではなくて、8ミリフィルムでしたけれど。2日間くらいメンバーが集まって撮影して、2〜3曲分の映像に仕上げたんです。
中西:えっ? そんなお宝があったんですか。
松本:残念ながら諸事情で、そのフィルムはもう見つからないだろうね。ただ、その時に「これからは音楽と映像は密になっていくんだろうな」と思ったのは確かです。でも、鈴木茂に反対されたんですよ(笑)。「ミュージシャンが余計なことをする必要はない」って。